キリンHD執行役員 濱人事総務部長に聞く「健康経営優良法人キリンHDが 世界に通用するCSV先進企業をめざし、多様性を重んじるわけ」
文/中澤 仁美(ナレッジリング) 撮影/和知 明(株式会社BrightEN photo) 取材・編集/ステップ編集部 |
「共有価値の創造」などと訳されるCSV(creating shared value)は、事業を通して社会的な課題を解決し、そこから生まれる「社会価値」と「企業価値」の両立をめざす経営フレームワークです。健康経営優良法人認定企業 キリンホールディングス株式会社で執行役員と人事総務部長を務める濱利仁氏に、同社が社会的責任と商いの両立をはかるCSV先進企業をめざすようになった経緯と、それを実現するための多様性(ダイバーシティー)を重視する人事戦略について伺いました。
濱 利仁(はま・としひと) キリンホールディングス株式会社 執行役員 人事総務部長 1991年、キリンビール株式会社入社。生産・営業部門、人事部門、経営戦略部門などを経て、台灣麒麟啤酒股份有限公司で董事長兼総経理に就任。2019年にはキリンホールディングス株式会社 人事総務部長へ就任し、2021年より現職。 |
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3.11の復興支援を経てたどり着いたCSV経営
当社がCSV経営に注目するきっかけとなったのは、2011年3月11日に発生した東日本大震災でした。いまだ記憶に新しい未曽有の大災害ですが、宮城県の新仙台港にほど近いキリンビール仙台工場も甚大な被害を受けました。震度6強の揺れでビール貯蔵用の巨大タンクが倒壊し、押し寄せた津波に工場の各所が破損され、現場は言葉を失うほどの惨状を呈していたそうです。社員の人命が失われることがなかったのは不幸中の幸いでしたが、自宅が倒壊してしまったケースも多く、多くの仲間が深刻な被害を受けたことは間違いありません。
これから仙台工場をどうするか、私たちは決断を迫られました。復旧に莫大な時間と費用がかかることは明らかで、このまま撤退するという選択肢もあり得たでしょう。しかし、この工場は、ある意味でキリンだけのものではありません。仮に撤退すれば雇用創出の場が失われる上、サプライヤーや周囲の倉庫関係者など多くの方々にも影響を及ぼし、地域経済に大きな損失が生まれてしまうからです。そこで、地域の再興を果たす一助になりたいという思いもあり、当社は「仙台工場を残す」方向に舵を切りました。その決意表明をした、実際のニュースリリースからの抜粋がこちらです。
「現時点で操業再開の時期は不明です。厳しい現状ですが、88年にわたり東北地方のお客様に当工場のビールをご愛飲いただいた絆に感謝し、必ず操業再開を果たし、東北地方のお客様の期待にお応えします。」(2011年4月7日)
約100日間におよぶ清掃・片付け作業を含め、地道な復旧作業を続けて一歩ずつ前進していきました。そして、震災から約8か月後の11月2日、ついに岩手県産のホップを使用した「一番搾り とれたてホップ生ビール」を仙台工場から出荷することができたのです。出荷式のセレモニーには多くの社員や関係者が集結し、感無量の思いで、汗と涙の結晶である製品を送り出しました。
毎年、岩手県遠野市で収穫したホップにこだわって製造される「一番搾り とれたてホップ生ビール」は、2021年で発売18年目を迎えた。
その後も当社は「復興応援キリン絆プロジェクト」と銘打って、10年間にわたり東北地方の復興に向き合い続けてきました。農業復興や再生支援など多彩なプロジェクトに総額65億円を拠出し、本社の社員も現地でボランティアを続けました。一方で、寄付事業を続けるだけの支援では、いつか限界がきてしまうという懸念が生じてきたのも事実です。この先、企業として継続的に貢献する方法を模索する中で、たどり着いたのがCSVという概念でした。
健康経営優良法人・CSV企業の礎となる「多様性」が生き残りのカギに
当時、復興事業を担当していた磯崎功典(現・キリンホールディングス代表取締役社長)は、さっそくCSVの提唱者である米国の経営学者マイケル・ポーター教授のもとを訪れました。企業の事業を通して社会的な課題を解決するという考え方は、当社の問題意識とぴったり重なるものだったと思います。同教授から「地域と企業、両方の発展が持続性につながる」と教えられ、背中を押された磯崎がCSVを推進していくことになりました。
ところが、当時はCSVの認知度がまだまだ低く、その概念を社内に浸透させるのは容易ではありませんでした。同じような取り組みを行う日本企業もほかに見当たらず、「CSR(corporate social responsibility)と何が違うの?」「そんな絵に描いたようなことが実現できるの?」と不安を覚える社員も多かったと思います。CSVにかける思いと実際の活動を結び付けながらメッセージを伝え続け、ようやく2019年に発表した長期経営構想「キリングループ・ビジョン2027」の中で、CSVを経営の根幹として位置付けることができました。その間、理念が重なる「企業と従業員双方の“健康”」を目指した改善も行われ、2017年から5年連続で「健康経営優良法人」として認定されています。
図表:長期経営構想「キリングループ・ビジョン2027」では、世界のCSV先進企業をめざすことが明記されている。
これまでに行ってきた具体的なCSVの取り組みとしては、「キリン氷結 福島県産果実シリーズ」が代表的です。当時、福島県の生産者は原発事故の影響で風評被害に苦しんでいました。そこで、氷結シリーズで福島県産の梨や桃などを使い、安全性を確認した上でお客様にお届けすることに。売上げが伸び悩んでいた特産品をたくさん買い取り、福島県の風評被害の軽減にも貢献できる上、キリンとしても経済的価値を受け取ることができるというわけです。
こうしたイノベーションを実現するためには、土台となる確かな組織能力が欠かせません。中でも、すべての組織や機能に共通して重要なのが「多様な人材と挑戦する風土」です。いくら高い技術や良質な素材を有していても、さまざまな属性の人材が集ってのびのびとチャレンジできる職場でなければ、イノベーションには結び付かないからです。「多様性」(diversity)という言葉は、当社の基本的な価値観であるOne KIRIN Valuesの一つでもあり、これから当社が市場で生き残っていくために必須の要素だと確信しています。
「多様性こそがイノベーションのドライバーになるのです」と力強く語る濱さん。
「入社5年で半数の女性社員が退職する」状況を変えたくて
そもそもキリンでは、約30年前から「人間性の尊重」を人事の基本理念として掲げてきました。人には無限の可能性があるという前提の下、社員と会社は仕事を介した対等な関係(イコール・パートナー)だとする考え方です。そのためにも、社員はキャリア形成やジョブデザインなどにおいて「自律した個」であること、会社はそうした個人を尊重・支援することが求められます。リモートワークでも仕事を組み立てて進める力や、それが可能な環境の整備が重視されるという意味で、コロナ禍にあってあらためて注目すべき理念だといえるでしょう。
今回の取材をコーディネートしてくれたコーポレートコミュニケーション部の菅原光湖さんも、キリンでいきいきと活躍する女性のひとり
そうした当社におけるダイバーシティー元年は、「キリン版ポジティブアクション」を制定した2006年です。当時は女性社員の採用が増え始めていたころで、採用全体の30~40%程度を占めていました。ところが、入社から5年ほどたつと、ライフイベントなどの影響で約50%の女性社員が退職してしまっていたのです。顧客の半数が女性である当社において、商品を生み出すのが男性ばかりという状態は健全ではありませんし、企業としての将来性にも影響するでしょう。こうした事態を改善する第一歩として発足させたのが、「キリン・ウィメンズネットワーク」(KWN)です。
KWNは女性の活躍とネットワークづくりを積極的に支援するための社内組織であり、当時のキャッチフレーズは「半歩でもいいから前へ」でした。KWN推進委員から経営陣への提言も行われ、これ以降、女性社員のアイデアを生かした制度が次々と創設されるようになっていきました。例えば、配偶者の転勤や自己啓発のために籍を残したまま休職(最大3年間)できる「ワーク・ライフ・バランスサポート制度」や、自己都合退職後に再入社可能な「キャリア・リターン制度」は、女性の声を受けて2009年に誕生したものです。
2013年からは、女性活躍推進長期計画「KWN2021」を策定したり、経営陣関与の女性リーダー育成策「キリン・ウィメンズ・カレッジ」(KWC)をスタートさせたりと、よりステップアップした取り組みが行われるようになり、ダイバーシティー2.0の段階に至りました。そして、2019年にはOne KIRIN Valuesに「多様性」が追加され、長期経営構想にも明確なかたちで取り入れられることになりました。これは多様性の尊重が経営戦略に落とし込まれたことを意味し、現在のキリンはダイバーシティー3.0に突入した状況だといえるでしょう。
ちなみに、2020年末時点、キリンHDとキリンビール合算で、平均勤続年数は、女性17.5年、男性17.6年と、しっかり改善できたことを申し添えておきます。人気だった施策はこれからお話しましょう。
「お子さんが発熱です!」独身者も育児・介護・病気状態を体験訓練、期間1カ月の多様性推進施策
廊下を歩く菅原さんと濱さん
多様性推進のユニークな施策として、ぜひご紹介したいのが「なりキリンパパ・ママ」です。若手の女性営業職5人が「ママになっても営業を続けられる?」という問題意識から発案したもので、仕事とプライベートの両立を実際の業務上でプレトレーニングする内容です。具体的には、「育児」「親の介護」「パートナーの病気」のいずれかのシチュエーションを選択し、時間的制約を設けた働き方を1か月間かけて体験します。「お子さんが発熱したので急いでお迎えに来てください!」といった架空の緊急連絡がランダムに入ることが特徴で、それでも業務を回すための創意工夫を促したり、多様な立場を理解し合ったりすることにつながっています。これまで約580人の社員が体験している取り組みで、一部の自治体へノウハウ提供も行いました。
そのほか、在宅勤務の要件撤廃やフレックスコアタイムの廃止など、さまざまな「働き方改革」に注力してきました。男性育休取得率にもその効果は表れており、2017年には30%未満だったものが、2020年には55%にまで上昇しています。女性活躍に優れた上場企業として「なでしこ銘柄」に選定されるなど、結果的に社外評価へ結び付いていることも誇りに感じています。
また、2021年までにリーダー職に占める女性の割合を12%に上昇させるという「KWN2021」の目標値にはわずかに届きませんでしたが、11%台は達成することができています。今後は「2030年までに女性リーダー比率30%」をめざし、これまで以上に多様な視点を経営に取り込んでいきます。
女性活躍推進によるイノベーション創出効果については、すでに確かな手ごたえを感じています。例えば現在、さまざまなお店で販売頂いているキリンビールの「SPRING VALLEY」ブランドのはじまりは、入社5年目の女性社員が社長に直訴し、その熱意で会社全体を動かしながらブルワリー併設の店舗の立ち上げなど、今までにないビール体験をお客様に提供したいという思いで創り上げたもの。現在では、当社のクラフトビール戦略の象徴ともいえる存在になっています。
また、機能性表示食品プラズマ乳酸菌シリーズの「iMUSE」は、女性の部長が統括しているブランドです。こちらはキリンホールディングスと小岩井乳業、協和発酵バイオの3社共同研究から生まれたもので、これもキリンの多様性を象徴する製品だといえるでしょう。
若手女性の熱意が企画・開発につながった「一番搾り 糖質ゼロ」と「SPRING VALLEY 豊潤496」
日本で初めて、免疫機能を訴求する機能性表示食品として届出された「iMUSE」シリーズは女性の部長が統括
今回は女性活躍推進のお話が中心でしたが、当社では障害者やシニア、性的マイノリティーなどより幅広い層に目を向け、具体的な取り組みを進めています。互いの「違い」を受容し、多様性が健全にぶつかり合うような組織を構築することで、これからも新たな価値の創造に挑んでいく決意です。