自社らしいオリジナルな健康経営で企業価値を高めよう 新井卓二教授解説
「健康経営」という言葉だけを流行のものとして取り入れ、しかしその意味するところを理解できていない人は少なくありません。「そもそも何のために行うのか?」「どのように実施すべきか?」と悩み、なかなか実現に踏み切れていない企業も多いでしょう。そこで、経営学の視点から健康経営を研究している新井卓二さんに、この5月発行の新刊『最強戦略としての健康経営』(同友館)から先進的な取り組み事例を交えながら、健康経営のメリットや実施における注意点を語っていただきました。
取材・文/中澤 仁美(ナレッジリング) 取材・編集/ステップ編集部 |
新井卓二(あらい・たくじ) 山野美容芸術短期大学・教授/新井研究室主宰/日本ヘルスケア協会健康経営推進部会 副部会長/社会的健康戦略研究所 運営委員 特別研究員/健康行動ネットワーク advisor 証券会社勤務を経て、法人向け出張リラクゼーション株式会社 VOYAGEを起業し売却。明治大学ビジネススクールTA、昭和女子大学研究員、山野美容芸術短期大学講師を経て現職。著書『経営戦略としての「健康経営」』(共著、合同フォレスト)、「ヘルスケア・イノベーション」(共著、同友館)ほか、健康経営の論文多数。2022年5月に単著「最強戦略としての健康経営」を発刊。 |
健康経営は企業間競争の「基盤」
健康経営とは、未来に残すべき卓越したマネジメントシステムである――。私はそう確信しています。皆さんご存じの通り、日本の労働者人口は減少の一途をたどっており、人材確保がますます困難な時代に突入することは明白です。貴重な労働力を確保するためにも、一人ひとりの従業員の価値を最大化するためにも、企業が健康へ投資することは従来に増して重要になっているのです。人材という他社に模倣できない無形資産を強化し、競争優位が生まれれば、企業価値をも大きく向上していくでしょう。「生涯、元気に楽しく働ける社会」をつくって次世代にバトンタッチするという意味でも、健康経営には大きな意義があると考えています。
実際に健康経営を意識する企業が増えていることは、経済産業省と日本健康会議が共催する健康経営の顕彰制度(健康経営度調査)の回答数にも表れています(表1)。本制度がスタートしてから減少したことは一度もなく、順調にその数を伸ばしていることが分かるでしょう。日経平均採用225銘柄の企業に絞れば約8割が健康経営度調査に回答しており、もはや「大企業で健康経営に取り組んでいないのは少数派」だといえる状況です。
表1:健康経営度調査の回答数
「それだけ多くの企業が健康経営に取り組んでいるなら、今さら始めても競争優位には至らないのでは?」と尋ねられることもあるのですが、これは大きな誤解です。なぜなら、健康経営は企業にとって基盤となる戦略だからです(図1)。私が過去に取材した2つの企業では、従来とは異なる派閥から新社長が誕生する、ビジネスモデルをBtoCからBtoBへ転換するという大変革期を迎えた際にも、健康経営だけはそのまま推進するという判断をしました。どんなに組織が変化しても、いきいきと活躍する従業員が必要なことに変わりないからです。健康経営はその他の経営戦略や理念などと競合するものではなく、むしろ「土台」として企業をブーストするものなのです。
図1:健康経営と経営戦略の位置付け(理念・戦略・戦術)
また、健康経営を経営戦略として位置付け、的確に取り組みを進めれば、「他社とまったく同じ内容で差別化につながらない」ということは基本的にあり得ません。これがどういう意味なのか、次項で詳しく説明しましょう。
ステップで独自性のある健康経営施策をめざそう
健康経営の取り組みは、3段階のステップに分けることができます(図2)。STEP1は、経済産業省が提示する健康経営度調査に回答しつつ、施策を準備する段階です。STEP2では、健康経営管理会計ガイドラインなどを活用し、実行した健康投資とリターンを測定(推計)していきます。その結果に基づき、自社ならではの経営資源を活用して、独自性のある取り組みを実現するのがSTEP3となります。私の感覚では、健康経営に着手した企業の多くがSTEP1の段階にとどまっており、健康経営銘柄(※1)の認定企業でもSTEP3まで駒を進められているのは少数派です。
※1 健康経営銘柄:健康経営に取り組んでいる上場企業を選定・公表し、投資家にアピールすることで、その取り組みを後押しする仕組み。
図2:健康経営への取り組み3ステップ
「独自性のある健康経営」といってもなかなかイメージしづらいと思うので、具体的な事例を紹介しましょう。
4年連続で健康経営銘柄に選定されている日本水産株式会社(ニッスイ)では、禁煙対策や柔軟な働き方の制度拡充などに加えて、事業の柱である水産物や、EPA(エイコサペンタエン酸)、速筋タンパクの啓発を含む「カラダ改善コンテスト」で従業員の健康づくりを推進しています。また、定期健康診断の検査項目にEPA/AA比※2を取り入れており、健診前にEPAを多く含む自社製品を集中的に摂取してもらう「EPAチャレンジ」を実施した実績もあります。自社製品を食べて健康になることで従業員のロイヤリティーが高まり、企業としてのミッション強化にもつながっている好事例だといえるでしょう。
※2 EPA/AA比:血中のエイコサペンタエン酸とアラキドン酸の比率。EPA/AA比が低いと心血管疾患の発症リスクが高まる可能性があることから、健康管理の指標になりうると考えられている。
もちろん、直接的に健康に関連する製品やサービスを取り扱っている企業しかSTEP3に進めないというわけではありません。例えば、ヤフー株式会社では、健康経営に取り組むメンバーの一員として、自社のデータアナリストを参画させています。従業員の力を活用して高度な分析を図り、より効果的な施策を吟味しているわけです。どの企業にも独自の経営資源があるはずで、それを最大限に生かした「自社にしかできない健康経営」「理念の追求につながる健康経営」を突き詰めて考えることが肝心です。
なお、健康経営度調査の項目は毎年のように改訂されてきましたが、近年では産業衛生や安全衛生の延長で取り組める項目の割合が減り、ワークエンゲージメント※3の測定、離職率、女性の健康といったより幅広い項目が採用されています。それを受けて2022年度の健康経営銘柄では、全50社のうち19社が「初選出」の企業で、前年度と比べて4割近くが入れ替わるという異例の事態になりました。産業衛生・安全衛生領域にとどまらない多彩な取り組みを評価すべく、大きく舵が切られたといえるでしょう。
※3 ワークエンゲージメント:「仕事から活力を得ていきいきとしている」(活力)、「仕事に誇りとやりがいを感じている」(熱意)、「仕事に熱心に取り組んでいる」(没頭)の3つがそろった状態。
社内にも社外にもメリットが波及していく
こうして健康経営の認知度が上がり、取り組む企業が急増したことから、短期~中期的な効果が明確化しつつあります(図3)。例えば、外的効果として最初に発揮されるのはブランドイメージの向上で、それによるリクルーティング効果も考慮すると、健康投資に対して3~10倍の効果が見込まれることが分かっています。取り組みがメディアに掲載されたことを従業員の家族が知り、そこから情報が伝わって従業員自身のロイヤリティーアップや離職率低下につながるという側面も見過ごせません。
図3:健康経営が組織に与えうる影響の全体像
一方、内的効果として初期段階に改善がみられるのは、コミュニケーションやヘルスリテラシーといった部分です。健康について気軽に語り合える風通しの良い職場ではモチベーションが上がりやすく、離職率も低い傾向にあります。これは感覚的にも納得のいくところでしょう。中期的には職場全体の心理的安全性や幸福度が高まったり、プレゼンティーズム(健康問題を抱えつつ就業する状態)が減少して生産性の向上につながったりします。こうした風土が根付くことにより、将来的にイノベーションが生まれやすい組織になることも期待されます。
注意が必要なのは、医療コストが一時的に増加しやすいという点です。健康経営の顕彰制度では「健康診断受診率100%」が必須項目のため、それまで未受診だった従業員に病気が見つかり、治療で休業するケースもあるためです。もちろん、これにより高ストレス者や総合健康リスク度が減少するので、最終的には(少なくとも1人当たりの医療費は)減っていくはずです。何より、メンタル面も含めた発病による突然の退職を予防しうること、そして各人のパフォーマンス向上に寄与することの意義が大きいでしょう。
ただし、従業員の平均年齢が上昇傾向にある日本の事情に鑑みると、大幅な医療費削減にまで至るのはなかなか難しいかもしれません。健康経営の実施においては企業ごとに明確な目標、KPIを設定することが重要ですが、そこに医療費の削減率を含めるのはあまりお勧めしません。
健康経営は「渡るのが困難な大河」ではない
目標を設定すること以外にも、健康経営に取り組む際に注意したい点があります。まずは、事前アンケートなどで現状を把握してからスタートすることです。「上司からの指示があったので何となく始めた」という感覚では、思うようなリターンを得ることはできません。一般的な商品開発などと同じように、ニーズを把握してターゲットを明確にしてから施策をスタートし、定期的な効果測定を行うことが肝心です。できるだけ数値化を図りながら、PDCAサイクルを回すことを意識してみてください(図4)。参加者を増やすためにも「やらされ感」のある内容から脱却し、心がワクワクするような取り組みをめざしていきましょう。
図4:健康経営の取り組みサイクル
次に心がけたいのは、最大の効果を得るために、健康経営を指揮するメンバーを厳選し、クロスファンクショナルチームを組むことです。産業保健や人事部のスタッフに限らず、広報・IR、ヘルスケア事業部、分析担当者、労働組合などのほか、グループ会社や取引先の健康経営推進者を取り込むことも一案です。年齢や男女比といった観点からも多様性があり、それぞれの知見を生かせるバランスの取れたチームが理想的です。
最終的にめざすべき姿は、健康経営が企業文化としてしっかりと根付き(corporate culture of health)、従業員が健康経営の施策を意識しなくなる状態です。そのために忘れてはならないのが、評価制度との整合性を図ること。例えば、ひたすらに残業して売上トップを達成した従業員よりも、就業時間内で最大限の成果を挙げた従業員を高く評価するといったイメージです。また、採用や研修といった機会を逃さず、健康経営に関するメッセージを伝え続けることも欠かせません。
健康経営というと真新しい概念のように思いがちですが、実は日本的経営となじみがあるものです。例えば、かつての日本企業では朝のラジオ体操を日課にするところが多かったのですが、これはまさに健康経営的な取り組みだといえます。明文化されているかはさておき、従業員を家族のように大切にする伝統的な日本企業の姿勢には、健康経営の要素が多分に含まれていたのです。そうした意味でも、健康経営を「渡るのが困難な大河」のようにとらえる必要はありません。むしろ、実際に始めてみれば「ちょっとした小川」にすぎないことが分かるでしょう。まずは臆せずスタートすること、それがすべてだと思います。
※新井教授には、健康経営関連の顧問としての依頼問合せが可能です。依頼できる内容について知りたい方は文末のマイナビ顧問お問い合わせボタンよりご連絡ください。
※「健康経営®」は、NPO法人健康経営研究会の登録商標です。
【新刊紹介】 『最強戦略としての健康経営―競争優位とサステナビリティを生む人的資本のためのビジネスモデル』(同友館) 本インタビューの内容をより深く学びたい方は必読! 具体的な効果の測定方法や各企業・自治体の事例などを豊富に取り上げており、健康経営の「今」を的確につかめる一冊になっています。2019年に出版されて評判を呼んだ前著『経営戦略としての「健康経営」―従業員の健康は企業の収益向上につながる!』を発展させ、「ウェルネス(健康)キャリア」「健康経営マネジメント力」「ONE to ONE健康経営」などのキーワードをもとに考察しています。 |